新年あけましておめでとうございます。
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本年もどうぞよろしくお願い致します。
写真は四国伊予西条駅前にある四国鉄道パークIN SAIJYOに展示されている新幹線0系と名車の誉れ高い機関車DF501号機関車です。
平成28年師走の始まりの頃愛媛県西条市を訪れ、その際に四国鉄道パークINSAIJYOへ行ってきました。地元の保育園生が多数見学に訪れており少々場違いの感がありましたが、将来の十河信二氏がいるような気がしてとても明るい気分で見学できました。
昨今鉄道博物館が各地で建立され規模や展示物に目を見張るものが沢山ありますが、身の丈に合うと言うと四国の方に失礼かも知れませんが、こじんまりまとまっており入場料も子供の頃よく行った東京神田(秋葉原)の交通博物館と同程度(ここは大人一人300円、交通博物館の方が少し高い
かも知れません。)で交通博物館にタイムスリップしたように感じました。
何回かに分けて十河信二氏と鉄道パークについて書いてみたいと思います。
今日は正月らしく大きな仕事を成し遂げた新幹線生みの親と称される十河信二氏について
お伝えしたいと思います。
十河信二(そごうしんじ)というお名前、下は間違えることはまずありませんが、苗字は意外と間違えやすく、箱根の由緒ある旅館ご出身の女性は、近所に十河氏の箱根別荘があり、子供時代の記憶そのままにそがわさんと呼んでおられました。この漢字は確か百貨店そごうの屋号と同じで会社名は十河ではなかったでしょうか?私は百貨店と同じ名称と頭にインプットしましたので『そごう』さん以外の呼び名を使う事はひとまず心配ありません。
十河信二氏は明治17年愛媛県新居浜市に生まれ西条中学、一高をを経て東京帝国大学へ、
後藤新平に認められ鉄道院へ入る。その後満鉄理事などを経て、反東条英機運動を行い憲兵に追われるも西条市長に就任。そして戦後昭和30年に日本国有鉄道第4代総裁に就任。
広軌新幹線建設を成功させる。昭和38年に総裁を退任。その後、日本交通協会の会長を14年間務める。昭和56年10月3日97歳逝去。勲一等瑞宝章、西城名誉市民の称号を受くとプロフィールが紹介されています。
エピソードも沢山お持ちですが、ここでは幼少期と世界銀行から新幹線建設のための資金調達成功についてご紹介致します。最初に西条中学への通学です。生家から毎日19.5kmの往復を徒歩でしていました。
後年この通学が『私の健康の基』と語っていました。
そして忘れてはならないのが、新幹線建設に向けた世界銀行からの借款による資金調達でしょう。
世銀の規定には新技術を使った試験的な事業計画には融資はできないという決まりがありました。
十河はそのルールをものともせず、新しく鉄道を建設するのは後進国以外にないと世銀幹部に説き世銀から『そういう後進国なら世界一の鉄道を作るのはおかしいじゃないか?』と反論を受けてもものともせず交渉をすすめ昭和35年12月に正式交渉開始にこぎつけました。
ただこの借款があまりに高額で国の行財政サービスに影響を与えるものとして、任期満了となる昭和38年に国鉄総裁を退任します。まさに差し違えといったところでしょうか?
後世がその人の現役時代の功績を(歴史が)評価するものとよく言われますが、名誉市民認定など充分功績が評価されたのではないでしょうか?
国鉄総裁を退任されたのが東京五輪そして東海道新幹線開業前年の昭和38年、当紙芝居編集部員のイシマサ、マツケンの誕生の年、そして逝去が両編集部員が大学へ進学した年。
回想したくなる偉人十河信二氏でありました。
次回は鉄道パークのご紹介を致します。
前回の東京五輪開催の年昭和39年に開業した東海道新幹線のミニチュアモデル。
今回の東京五輪では電気自動車の無人運転実現をレガシーとして目指しています。
2020年の五輪後は自動運転による電気自動車のミニチュアが制作されるかもしれない?
確かに高齢者の新たな交通手段確保が実現されれば、誰もがハッピーです。
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