昭和51年最初に北海道へ行った際に乗車した「ゆうずる2号」の寝台券を持っているはずですが、見当たりません。
この旅行ですっかり北海道に魅せられ2回目に北海道へ行った際に乗車した「はつかり11号」の特急券です。
はつかり号は上野を15:30に出発し青森着が0:10頃でした。
今回は初めて寝台電車に上野駅から乗車するところから回想します。親子3人にあてがわれた寝台は縦に上、中、下の3段でした。鰻重と異なり寝台のハイクラスは下段で
条件が良くないのが上段です。自ずと父が下段、母が中段、そして私が上段です。
下段は日中座席車として使用するため幅は広く窓へ寄れば座ったまま夜景も楽しめます。下段寝台料金は確か500円増しだったでしょうか。中段は上段ほど天井は低くありませんが上下に挟まれ窮屈な感じ。一方上段は横になるしか滞在方法はありません。
今日の高齢社会で寝台電車が活躍しているとすれば、ほぼ間違いなく上段寝台に上る
階段からの転落事故が発生していたでしょう。身軽な少年時代ですので難なく上段に潜り込み狭い個室空間は、少年が憧れる秘密基地の様相でした。
そのマツケンの要塞の通路を隔てた反対側の上段にいたのが、少し年上の可愛い
お姉さんでした。このお姉さんも不思議な空間とこれから始まる「北海道旅行」に
うきうきしていたのか、私に手を振って話しかけてきました。何を話したか覚えていませんが、上段寝台はエアコンの切り替えボタンに手が届きそのお姉さんは冷房を「弱」に
切り替えてもいい?と私に尋ねました。
寝台電車の上段はまさに要塞で夜景が見える覗き窓もついていました。その後寝台車は2段が主流となり覗き窓は役目を終えました。
その後眠りにつき早朝4時30頃でしょうか?下段の父から洗面に行くぞと声をかけられ
いい加減に歯を磨いて顔を洗いました。列車は早朝5時頃青森駅に到着し、青函連絡船
桟橋に向かいました。寝ぼけていたのでしょうか?その後記憶に残っているのは青函連絡船のグリーン船室の入り口に立っていたボーイさんです。
青函連絡船は乗船する前、青森駅到着前に接続列車の車内で乗船する人に対し
乗船名簿が配布されその車中で回収されます。4時間の長い船旅で昔事故があったと
聞いていただけにマツケン少年は船が遭難する可能性があるので名簿が配られていると
勝手に一人で解釈し不安になりました。
この当時宇都宮線通勤電車の終電は早く、タクシーよりも安い交通手段として
酔った人が活用したのが、寝台電車です。グリーン車が他に唯一の座席車として
連結していましたが、寝台よりも高いため酔客は寝台車を利用しました。
この寝台利用がとんでもない悲劇をもたらしたのです。
お酒で気持ちの良くなってしまった父さんたちは寝台で横になると深い眠りにつき
目がさめるとあおもり~、あおもり~の駅ホームの放送が聞こえてきます。
青森駅にいつも家から出る時間にいるわけで、どんなに急いでも会社に出るのは
午後3時頃でした。帰りの特急料金も払って泣きっ面に八?いえいえ故意ではないので
寝過ごした場合は運賃不要です。
現在夜行列車は一部を除き廃止となりましたので、これも「追憶・マイヒストリー」の世界です。
新幹線開業後主役は新青森駅にその座を譲りましたが、回想世代の多くはやはり青森駅が、いつまでも
主役でしょう。
青函連絡船の乗船口は、青森駅の一番後ろ側
仙台寄りでした。桟橋への長い道のりを大勢の
人が通過していったのは遠い昔となりました。
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