父親を思いだす時真っ先に思い浮かぶのは父の故郷新潟です。新潟へ行くとき
乗車したのが写真の『特急・とき』か『急行・佐渡』どちらも佐渡島に由来したネーミングでした。
父は大正7年6月15日生まれ、今日生きているとすれば98歳です。マツケンは昭和38年の生まれですので当時としてはかなり遅い45歳の時の子供でした。マツケンが少年の頃というか、大学生の頃までサラリーマンの定年は55歳で普通に考えれば10歳の頃父は定年を迎えることになります。当時の平均寿命男性は70代前半であり父がいつまで元気でいるのか、こどもながら心配していたことを思いだします。
そんな心配をよそに父は89歳の天寿を全うし85歳くらいまで現役で働いていました。
昭和48年マツケン10歳のときに父と新潟へ帰省した
時の特急券が家にありました。当時の最終列車で
終点の新潟には23時30頃の到着でした。
父の実家は『田上』という加茂と新津の中間にある
鈍行しかとまらない駅で長岡駅で『とき』から乗り換え
ました。当時の鈍行は冷房が付いているはずもなく
窓を全開したのですが、蛾が車内を飛び回っていて
手で追い払ったことを思いだします。
さて、本題の父の誕生日に話題を戻します。父の誕生日はマツケンにとって一大イベントでした。1月前の5月中頃から文房具屋に行って大きな模造紙を買い、それに『誕生日』おめでとう、『長生きしろ』、『旅行へ連れて行け』とかわけのわからないことを書いて
誕生会の席に貼っていました。いつも夜7時頃帰る父が誕生日の日は6時30分頃帰ってきて乾杯しケーキを食べお祝いしました。
その誕生会もマツケンが社会人になると外食に代わりました。外食はその後ずっと続くのですが、父を迎えに行ったある年、父がセピア色した模造紙をおもむろに見せるのです。その模造紙はなんとマツケンが小学生の頃父の誕生会用に作成したものでした。
マツケン家族の前で見せられたので恥ずかしいやら、嬉しいやら何とも言えない気分でした。
父の誕生会が開催できなくなって10年近い歳月が経ちましたが、6月15日になると無性に誕生会を開きたくなります。
日暮里駅で購入した田上駅までの乗車券です。田上駅は無人駅で駅に隣接する酒屋さんが国鉄から業務委託を受けて切符の販売と売店をやっていました。何もない無人駅の駅前、コンビニの無い時代、漫画本を売っている駅の売店はマツケンのオアシスでした。
田上駅現在も無人は相変わらずですが、観光協会が
駅に入り立ち食いソバをやっているようです。マツケンは
残念ながら行ったことがありません。
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