東京五輪(1964)の前年、昭和38年誕生、京成初の百貨店
昭和56(1981)年に初めて発行された「京成電車時刻表」裏表紙の広告が上野京成百貨店でした。上野京成百貨店は八幡に遅れること9年後の1972年に誕生。京成の基幹店として誕生しましたが、12年の短命で現在は「上野丸井」店となっています。京成百貨店が現存するのは京成線とは、縁も所縁の無い茨城県水戸、地域一番店として今日まで存続しています。http://www.mitokeisei.co.jp/
ところでこの可愛いあかちゃんも40歳前後、まさに光陰矢の如し。それでは八幡京成を回想してみましょう。
八幡京成百貨店は昭和38年9月京成初の百貨店として、「京成八幡駅」隣接で誕生しました。開業時は屋上遊園地もあったようです。京成の百貨店事業は、本業の不振の影響を受け短命もしくは、業態転換を余儀なくされます。
八幡京成は、ネーミングはそのままながら1984(昭和59)年京成ストアに経営移管されます。その後2007(平成19)年に2階~4階のテナント部分が閉鎖、そしてスーパーとして1階に最後まで残った「リブレ京成」http://www.keiseistore.co.jp/が、2010(平成22年)に閉店しその役割を終えます。
それでは私の「八幡京成」の回想を致します。昭和の時代京成電車の車内アナウンスは、テープ放送で八幡駅の紹介は「やわた、やわた、京成百貨店前」と美しい女性の声でした。このテープ放送が無くなった後も「八幡、八幡、京成百貨店前」と車掌さんがアナウンスしていました。その放送が何時、止めたのか定かではありませんが、地下鉄都営新宿線https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stops/popup_shinjuku.htmlが大島から
本八幡駅に延伸され、乗り換えアナウンスが必要になるタイミングで無くなったのでは、と
思います。
私の「八幡京成」の印象は一言で表すなら「雨」です。今から40年以上前、母に連れられ始めて行ったのが大雨の日、船橋西武へ行く予定であったのが、濡れないところへ行こうという事で八幡へ行きました。
母がプラレールhttp://www.takaratomy.co.jp/products/plarail/を買ってくれ、箱が雨に濡れるのを気にすることなく家に帰りつきました。私鉄沿線に初めて引っ越し、傘をささずにデパートへ行ける「京成電車」http://www.keisei.co.jp/とても魅力的な乗り物でした。
当時京成線には遊園地のある「谷津遊園」https://ja.wikipedia.org/wiki/谷津遊園という駅もありました。
私と子供は市川の学校に通学しており、京成八幡駅と縁があります。先程「雨」と表現しましたが、八幡で大雨に会い京成百貨店で傘を買ったことがあります。京成百貨店が、
京成ストアに経営移管された時期で、テナントのお店が多数であった時代です。
当時、現在のようなロードサイドの大型ショッピングセンターは、多くは無く、駅隣接の
立地は魅力的であったものと思います。このお店のご主人がとても親切な方で、たいそうお気に入りな傘でした。
一方子供の方ですが、中学に入学したのが、京成百貨店(リブレ京成)最後の年、テナントと呼べるかどうか微妙な場所でしたが、八幡駅の改札からリブレへ向かう途中にクレープ屋さんがあり、学生さんで賑わっていました。
現在京成百貨店跡地は「京成電鉄」本社ビルとなっています。千葉が基盤の会社で
京成本線のほぼ中間地点、本社の立地として素晴らしいと思いますが、昭和世代の
編集部員には、「雨」に濡れない百貨店魅力的です。車で行けば濡れないで行ける場所は、沢山ありますが、電車で行って雨に濡れないところ、そんなに多くありません。
京成電車時刻表の裏表紙、京成百貨店から京成ストアに代わりました。八千代台隣接、リブレ京成がキィテナントのショッピングセンター「ユアエルム」です。広域から買い物客を集めましたが、八千代台周辺の高齢化により、一時の勢いは見られません。
コメントをお書きください