昭和60年旅の紙芝居編集部が社会人となった年
東北、上越新幹線は上野開業となりましたが、当時まだ上野~青森間の夜行列車は健在でした。
赴任先の仙台から何度かこの「急行八甲田」を利用して、帰省したことがあります。仙台を深夜0時頃出発して、翌朝上野へは6時頃到着。途中機関車を付け替える黒磯駅では、「アイスクリーム」の車内販売もありました。深夜に乗客同士で君は「野辺地戦争を知っているのか?」と熱い議論が車中でされていました。調べてみると明治維新、会津戦争の戦いの一つでした。東北の方同士のエキサイトした議論だったのかも知れません。
私鉄は今日まで、急行列車が健在です。有料の特急に対して急行は無料の速達サービスというのが、一般的と思います。一方、国鉄~JRの急行は有料で、特急(特別急行列車)との2区分で存在しました。急行を簡単に定義すると特急より途中小まめに停車し、全区間乗り通すというよりもどちらかと言えば短~中距離利用する、座席は特急が2名掛けのロマンスシートであるのに対し、急行は4名一区画のボックスシート、料金は特急の半額程度。これは私の勝手な定義ですが、概ね正しいように思います。
昭和の頃、鉄道や旅の雑誌では「急行列車」の特集が組まれることが良くありました。急行は庶民派の乗り物と紹介されていて、当時国鉄で時販売されていた周遊券では、急行自由席乗り放題というのが、セールスポイントで、当時の若者が北海道へ向かう際周遊券を活用して、北の大地へと向かいました。
急行は青函連絡船との接続も特急程ではなく、時間はあるけどお金はない学生たちの有難い乗り物でもありました。
ここからは私の思い出の急行列車をご紹介します。
1 急行佐渡(上野~新潟間)
父の実家帰省の際や登山などでよく利用しました。父の故郷下車駅は各駅停車しかとまらないため信越線の加茂駅で乗り換えなのですが、急行は特急と違い各駅接続が十分ではありません。加茂駅から実家までタクシーを利用するケースもありました。
タクシーを使うと特急とあまり変わらない旅費となりました。父はこの事実に気づいて
なかったと思います。佐渡号は昭和57年の上越新幹線大宮開業後も新幹線が停まらない駅の東京直通列車維持の要望を受け、昭和60年3月の新幹線上野延伸まで走り続けました。昭和59年大学4年の時、加茂の病院に入院している祖父を見舞い、その帰りに加茂から上野まで「佐渡」号に乗車しました。新幹線が大宮までの頃でも上野まで急行で乗り通す乗客は少ないようで、加茂駅の窓口で新幹線は使わないの?と質問されたのを鮮明に覚えています。実際乗客も少なく上野に21:30頃着きました。
2 急行信濃川(大宮~長岡間)、急行佐渡番外編
父の実家への帰省ではないのですが、小学生時代GWの頃など、よく父に連れられ新潟方面へ行きました。実家は跡取りの方がおられるので、そうそう何度も行くわけにまいらず、ふるさとの近くへ空気を吸いに行くといったところでしょうか。
GWに入ってからの急な外出で指定は取れず、座れそうな列車と言う事でピックアップしたのが、大宮~長岡間、臨時急行「信濃川」でした。近郊通勤形電車と呼ばれる115系という車両を利用しドアは3扉で、2名掛けのロングシートもありました。インターネットの無い時代、時刻表最新号を購入しない限り、臨時電車の情報は入手できず、情報が行き渡らないためか、信濃川号はガラガラでした。
当時、上野~大宮間の線路が満線状態で大宮発の臨時電車が運行されていました。
今日、新幹線は一部大宮始発が臨時運行されています。これも新幹線線路が東京~大宮間満線状態の措置で、臨時列車の乗車率UPが目的なのか、インターネット専用割引運賃が設定されています。
3急行かいじ(新宿~甲府間)
こちらは母の実家甲州市(当時塩山市)へ訪問の際に利用しました。かいじ号は同じ急行である「アルプス」号(新宿~松本、南小谷など)が長野県利用が主対象であったのに対し
勝沼(現、かつぬまぶどう郷)、石和(現、石和温泉)などに停車しました。かいじ号も信濃川号同様、クリームと青のツートンカラーの115系近距離電車が運用に入っていました。
こちらは臨時ではなく、定期列車として運行されていて、急行料金の100円引きの措置が取られていたと記憶しています。
4 急行かわぐち(新宿~河口湖間)、急行かいじ番外編
かいじ号と新宿~大月間併結して運行されていました。現在中央線の通勤電車が、東京~河口湖間ロングラン運行されていますが、その先駆けと言えます。現在新宿~河口湖間定期特急は無く、大月の駅からインバウンドも含め多くのツーリストが「かいじ」から乗降します。その光景を見るたびに「かわぐち」を回想します。
今回はここで終了です。ご清聴ありがとうございました。
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